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ウズベキスタンで初の日本語教師を務めた
岡平考司さん
<おかひら たかし>

<FONT size="-1">岡平考司さん</FONT>
民族楽器「ルボップ」を手に
岡平考司さん
岡平考司さん
28歳

日本語教師
広島YMCA国際ビジネス専門学校 非常勤講師
財団法人 広島国際センター日本語登録時間講師
考える日本語教師の会会長

〒737-0001 広島県呉市阿賀北7−23−31
e-mail -okahira20@ybb.ne.jp


ウズベキスタンの旅⇒

中央アジアに、ウズベキスタンという国がある。岡平考司さんは、同国に初の日本語教師として渡り、2年間にわたる輝かしい実績を残した後、現地のきれいな奥さんを伴い、民族楽器「ルボップ」を携えて帰国した。
以下、ウズベキスタンでの体験記を中心に、岡平考司さんを紹介する。

日本語授業の風景
日本語授業の風景 (首都タシケントにある国立大学)。
言葉で足りない部分は絵で指導。


ウズベキスタンの旅⇒

岡平考司さんの略歴
埼玉県生まれの広島県育ち。
姫路獨協大学外国語学部日本語学科で、外国人に対する「日本語教育」を学ぶ。
JICA青年海外協力隊の日本語教師隊員としてウズベキスタンへ派遣される。
2000年2月から2年間、ウズベキスタン国立世界言語大学(学生数5000人)で学生に日本語を教える。
帰国後は東京の早稲田文化館日本語科および国際レインボー東京外語学院の非常勤講師を経て現職。
ウズベキスタンとは
ウズベキスタンの旅⇒
中央アジアにある国。1991年ソ連より独立。
面積/44万ku(日本の1.2倍)
首都/タシケント(人口210万人)
民族/ウズベク人77%、ロシア人5%、タジク人5%、カザフ人4%
宗教/イスラム教
在留邦人/115人
公用語はウズベク語、共用語はロシア語。

◆岡平考司さんは、現在、 日本語教師として、広島YMCA国際ビジネス専門学校の非常勤講師および財団法人広島国際センターの日本語登録時間講師を務めるほか、「考える日本語教師の会」の会長として活躍している。


 
まず、最初に日本語教師とはどんな仕事かと聞いたら、
「日本語教育は外国人に日本語を教える教育で、国語教育は日本人に日本語を教える教育です。同じように見えるけど、中味は全く違います。日本人は日本語の基本ができていますが、外国人はゼロからのスタートです。ですから、こんにちは、ありがとう、さようならから始めます」と明快な答えが返ってきた。


 彼が日本語教育を選んだのは、国際的な仕事をしたかったからで、大学を卒業すると、すぐにJICAの選考試験に応募、1000人の中の80人に選ばれた。
「ちょうど、ウズベキスタンから1人日本語教師がほしいと要請がきていたんです。これがほくに回ってきたわけで、自分の意思とは関係ありません。運命だと思いましたね」


◆ウズベキスタンに着くと、ホテルに入った。一番困ったのは、言葉がまったくわからないことだった。
 食事をしようと、外に出たが、店がどこにあるかさっぱりわからない。迷ってウロウロしていると、なんとなく店らしい建物があった。
「思い切って入ると、大きなパンがあったので買いました。3日間、これで食いつなぎましたよ。しまいにはカチカチになりましたがね」


 それからしばらくして、ホテル生活からアパート生活に切り替えたとき、ちょっとしたアクシデントがあった。
「大学へ行くため、バスに乗ったんです。するとグルグル回って2時間ばかりかかりました。おかげで、授業に1時間遅刻。学生はみんな待っていました。歩けば5分と聞き、言葉の大切さが身に沁みました」


 言葉がまったく通じないなかでの日本語教育は、想像していた以上にたいへんだった。しかも、日本語講師の経験も初めてであり、毎日が試行錯誤の連続だった。それでもいろいろ工夫しながら根気よく続けているうちに、次第に視界が開けていった。



2年間の活動を認められ、感謝状をもらう
2年間の活動を認められ、
大学学部長から感謝状をもらう。

ウズベク民族楽器「ルボック」の腕前を披露
ウズベク民族楽器「ルボップ」
の腕前を披露する岡平さん

新妻のアイスールーさんとともに
右側が妻のアイスールーさん
はやくも二世誕生。
はやくも二世誕生。

「まず最初は、’こんにちは’から始めました。なんとなく、この言葉があいさつだとわかるんですね。学生は10人ばかりでしたが、みんなで大きな声で唱和しているうちに、次第に格好がついてきました」
 

「写真や絵などいろいろいな小道具を使いました。ジェスチャーや1人芝居もしました。こんなやり方は直接法と呼ばれていますが、学生とは次第に気心が通じてくるし楽しかったですね」


 
努力家である彼は、初めの1年間はウズベク語を勉強し、2年目の1年間はロシア語の勉強をした。
「昼は仕事ですから、夜、勉強するんです。覚えるとすぐに使えるので楽しかったですよ」


「ウズベキスタンには日本人が100人くらいいたといわれますが、働いたり生活したりする場所が違うので、ほとんど会いませんでした。だから、日本語をどんどん忘れるんです。しまいには、考える言葉も独り言も、ウズベク語かロシア語になっていました。日本に帰ってから、戻るのに1年くらいかかりましたね」


 当初は10人ばかりだった日本語教室の学生も、終わり頃には50人くらいに増えていた。こうしたこともあって、2年が終わったとき、大学学部長から感謝状をもらった。


 教え子のなかの1人が日本へホームスティにいったときは、格別嬉しかったという。
「ホームスティの手続きがたいへんだったんです。なんとかクリアして実現したときは、本人大喜びでした。現在、彼は留学生として日本にきています。その他にも、教え子が3人、留学生できているんですよ」


 ウズベキスタンのどこが気にいったのかと尋ねると、
「要はいい人ばかりなんですね。みんな礼儀正しく協力し合って生きています。日本が失ったものを持っているんですね」


インタビューしたとき、彼は、三味線のような感じの楽器を持ってきて、演奏してくれた。
「これは、ウズベキスタンの民族楽器でルボップというんです。内緒で師匠につき習いました。帰るときみんなの前で披露したら、大喝采してくれました。これは男の楽器なんです。砂漠のオアシスで休むとき、男が弾き女が踊るんです」


「この楽器は国外持ち出し禁止になっています。それにもかかわらず持っているのは、師匠が口を利いてくれて特に認めてもらったからです」と大事そうに楽器をなでていた。


 楽器もさることながら、それ以上の大きなステキなお土産があった。奥さんのアイスールーさんである。
「家内は、当時、学生だったんです。年末のパーティで知り合ったんですが、気持ちが合ったので、結婚しようということになりました。彼女にはお母さんしかいませんでしたが、そのお母さんが、ぼくを子供のように可愛がってくれ、結婚も快く許してくれたんです。お母さんは今向こうで一人暮らしですが、団地のキズナが強いので安心しています」


「家内は日本、特に広島がお気に入りで、毎日を楽しんでいます。緑が多く山や海がきれいなのが、いいようですね。おかげさまで子供もできました」と嬉しそうに語る。
 これからのライフワークは、日本語教育とウスベキスタンの紹介だという。
「あんなに素晴らしい国があるということを皆に伝え、ウズベキスタンの良さをもっともっと知ってもらいたい」と、目を輝かしながら語る彼は、やはりロマンに生きる男だと思った。



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