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■安岡エリ子さんは、1960年岡山生まれの岡山育ち。兄、姉3人兄弟の末子である。地元のジーンズメーカーの企画室にデザイナーとして勤務した後、1983年結婚、夫(一人っ子)の実家のある大阪に移った。 その年、岡山に住む実母(50歳)が慢性関節リウマチを発病。2年過ぎた頃、著しく病状が進み、安岡さんは大阪と岡山の間を往復する身となった。これが、17年間に6人も介護するという運命の幕開けになる。
「父がオムツをはずすので困りました。そこで、自分でおむつをしてみたんです。すごい不快感があったので、これならムリもないと、気持ちが軽くなりました。オムツをはずす理由は何か、考えてみる必要があると思いました」 最初は姉と2人で介護したが、姉にいろいろな事情が重なり、やがて彼女1人での介護となった。 「リハビリに必死で取り組みました。6ヶ月後にはおむつがとれ、歩いて自宅に帰ったんですよ。声は取り戻すことはできませんでしたが、性格は元に戻りました」 実父は、それから2年半の在宅療養の後、他界した。 「父の療養期間は3年間だったんですが、父の死後、母がリウマチの悪化と心労のあまり、首の骨がずれ寝たきりになりましてね。たいへんでした」 ■実父が死亡して1年過ぎ、実母の病状も落ち着いてきた頃のことだった。(夫の転勤により広島市に居住) 午前3時頃、警察から電話がかかった。夫(42歳)が交通事故により心肺停止で入院したという知らせである。かけつけると、顔の半分はガーゼに覆われ、人工呼吸器をつけていた。 その後、生命は取り戻し、懸念された失明も免れたものの、痴呆になり自分の名前もわからず徘徊した。 こんな状態のとき、またも悪い知らせが入った。 岡山の病院に入院中の祖母(実父の母・85歳)が大腿骨骨折をしたので、付き添ってくれという電話だった。 「日々悪化していく実母のリウマチ、夫の交通事故、祖母の骨折。なんという運命かと思いました。ところが、どんなことも、まるごと受けとめようと思ったら、気持ちが軽くなりました」 祖母は手術が無事終わると、老人保健施設での半年のリハビリを経て、特別養護老人ホームに入所した。やむを得ない選択だった。 夫は7週間ぶりにギブスをはめたまま退院、帰宅した。字が読めず、物の名前もわからず、話すこともままならなかったが、半年後には口数も増え、字も読めるようになっていた。 「お医者さんから、どんなリハビリをしているのか、奇跡だと言われました。ところが脳が正常になるにつれ、自責の念にかられ鬱病になったんです」 その鬱病も半年後には治癒し、交通事故から1年後、職場復帰した。
「思い出づくりに近郊の温泉に1泊旅行でもしてください」と、医師から勧められたが、どうせなら海外へ連れていってやりたいと思い、7日間のシンガポール旅行をした。そのときの義母の笑顔は、今まで見たことのないものだった。 義母は3カ月といわれながら、それから3年間入退院を繰り返し、終末の3ヶ月間は岡山の実母の家で在宅療養する。 「義母と実母との3人暮らしは、結構、楽しかったですね。元気な頃の義母とは、嫁姑のかっとうがありましたが、病んでから子供のように甘える義母には、いつのまにか親子の感情がもてるようになりました」 そんな義母も亡くなり、49日も終わっていないところへ、追っかけるように義父(79歳)が慢性腎不全で倒れ、人工透析の身になった。 義父は、大阪の病院で3年、広島の病院で2年過ごした後、他界する。 「義父は頑固な人で、大阪から広島市内の病院へ転院するのを嫌がったんです。しかし、転院に応じてくれたときは、本当に嬉しかったですね」 「入院中はたびたび外出許可をもらい、買い物や食事に出かけました」 ■祖母が亡くなったのは、義父の死より2年前だった。 「特別養護老人ホームから病院に移り、3カ月後に亡くなりました。祖母には、必ず迎えにいくと約束したのに、その約束が果たせず後悔しています。もっと努力しなければならなかったと残念です」 彼女は当時を思い出し、目をうるませていた。 「ガーゼねまきの場合、腰紐をゆるめると胸まではだけるんですね。人間の尊厳が傷つけられるように思いました。せめて祖母にはオシャレで機能的なねまきを着せてあげたいと思い、その気持ちをデザインし縫ったんてす」 この療養ねまきは、看護婦さんたちにも評判がよく、商品化を勧められた。 ■2000年7月、療養ねまきニートワンの特許出願申請をする。懸命な勉強の末、独力で出願した。 「弁理士さんには、よく書けているとほめられました」 商品化についてはメーカーに紹介もされたが、どうせなら自分で創ろうと起業を決意、2001年4月、有限会社リプレイスを設立した。 さらに、2001年10月、療養ねまきニートワンは、広島市主催第7回ひろしまグッドデザイン賞を受賞する。アパレルでは初めての受賞だった。 「本当に辛いのは、介護する人でなく介護される人です。ベッドから動けず、限られた楽しみしかありません。そうした人たちに少しでも楽しんでいただけるよう考案したのが、療養ねまきニートワンです」 「広島、岡山、大阪を行ったり来たりの17年間でした」と回顧する彼女は、現在も、1種1級身体障害者の実母を抱えながら会社の仕事をこなしている。 これからも、思いかげない厳しい試練に遭うかも知れないが、どんなことがあろうとも、持ち前のエネルギーと明るいパーソナリテイで、未来を切り拓いていくことだろうと思った。 |
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