◆いろいろな風船が、金本秀明さんの手元でつくられていく。人形、帽子、ペット、・・・・。まるで手品を見るようだ。場内にホットな歓声が湧き上がる。去る5月24日に行われた広島SOHOクラブの交流会でのことである。
金本秀明さんはプロの風船アーティストだ。主な仕事は、いろいろな形の風船をつくり、誕生日や結婚式・母の日・クリスマスなどのお祝いの場に届けること。その他に、バルーン教室を開いたり、住宅展示会や各種パーティなどでパフォーマンスをしたりしている。
金本さんが、こうした風船アーティストのプロの道に入ったのは、3年前の32歳のことだった。それまでの仕事は、なんと病院の放射線技師。しかも結婚したばかりだった。当然のことながら、転職については、奥さんも周囲の人も猛反対。このような状況にありながら、わが道を歩み始めた金本秀明さんは、どんな男なのだろうか、以下、その軌跡を追ってみた。
◆彼は、23歳のとき短大を卒業。広島市槙殿放射線科に放射線技師として就職した。それから1年後、広島赤十字病院へかわる。放射線技師の仕事は好きだった。将来はホスピスの仕事をしたいと思い、関係する勉強会には積極的に参加した。
29歳のときのことである。テレビで世界大道芸フェスティバルを見た。色とりどりの個性豊かな風船が次々に映し出される。それは強烈なショックだった。
その日から、材料になる風船探しが始まる。国内では東急ハンズで販売していたが、値段が高かった。そうこうしているうちに、アメリカのメーカーから直接輸入する方法を見つけた。
風船作りは楽ではなかった。テレビの画面をスローで再生しながら、見よう見真似で制作した。油がなくなって指がかさかさになったり、水ぶくれになったりした。
金本さんは当時を振り返る。
「努力が報われてきたのか、だんだんと腕も上がり、老人ホームや児童館めぐりを始めるようになったんです。風船を見て喜ぶ子供たちの目は、ステキだったですね。あのキラキラした目は、ぼくにはないものでした」
◆30歳のとき結婚。風船の仕事は、これまでどおり副業として続ける。1000人もの参加者があるバルーン東京大会にも参加した。そこにはたくさんのプロの人がいた。風船に専念できる彼等が無性に羨ましかった。5000人もの参加者があるアメリカの世界大会へも参加したかったが、今の仕事を続けている以上は、断念せざるを得なかった。

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彼は当時の悩みを語る。
「不完全燃焼のために、次第に欲求不満が溜まってきましてね。放射線の仕事も好きだっただけに、すごく悩みました。思い余って、家内に話すと猛反対です。それからも、しつこく家内を説得したんです。ついに、彼女は根負けして『好きにしなさい』嬉しかったですよ」
32歳になったとき、念願の退職を果たし、8年間の放射線技師の仕事に終止符を打った。早速、バルーン世界大会への出場と、アメリカのバルーンアーティストの下での勉強のため渡米する。実りのある2カ月間だった。世界大会では第2位の賞と新人賞を獲得、6週間の勉強期間中では、貴重な技術を習得し、たくさんの友達を得た。
◆こうして、満を持して日本に帰ってきた金本さんだったが、プロの生活は厳しかった。世界大会で入賞したこともあって、仕事は、順調に入ってきたものの、見積書も書いたことがない素人商人の悲しさ。足元を見られたり、入るべきお金が入らなかったり、人間関係に振り回されたりするなど、辛酸な日々が続いた。このため、風船の制作もスランプに陥った。
スランプは2年間続いた。こんなときに、ウルトラマンとして有名な和田治邦さん(ライフプランナー)に出会う。和田さんは、本に書いてある商売の基本をそのまま実践しているような人だった。彼から商売の基本を教わる。目からうろこが落ちるような気がした。運命の出会いだと思った。
将来の夢を聞いた。
「クリスマスのとき、自分を育ててもらった日赤病院の小児科を回り、子供たちを喜ばせたいですね。せめてもの恩返しになると思います」
「アリゾナ州のフェニックス子供病院の傍を、自転車で通りかかったときのことです。そこには、信じられない光景がありました。巨大な病院の何十という病室の窓に、お見舞いの風船が揺れ動いているんです。いつの日か日本にも、こんな光景をつくりたいと思いました」
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こんなすごいのがあるよ!
豪華絢爛たる日本有数のバルーン・アート |
「世界を風船をもって回りたいですね。そうして、風船の素晴らしさを伝えて歩きたいなあ」
彼は目を輝かせながら答える。そうして、最後に、こうしめくくった。
「家内はイラストレーターの経験を生かして、色合わせやデザインなどの面で、助けてくれています。自分の勝手な希望をかなえてくれた家内に、心から感謝しています」
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