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去る3月16日、久保浩之さんに招かれて口演会に行った。参加者は50人ばかりだったろうか。席の配置のせいか、気持ちが落ち着かない。後方にある幹事の席のささやき声は、講談が始まっても終わらなかった。 ところが、しばらくすると、それが気にならなくなった。講談に引き込まれたのである。周囲を見回すと聴衆全員の気持ちが壇上に集中しており、水を打ったように静かになっていた。 講談のタイトルは「閔妃暗殺パート2」。主人公は、暗殺の容疑者で呉市に亡命した禹範善の息子長春[ながはる]である。彼は、大罪を犯した韓国人の父と日本人との間に生まれ、人種差別に苦しみながら母国の農業技術の向上に一生をささげる。 久保さんの語り口は力強く迫力があり、「講談は怒りの芸だ」という久保さんの言葉が頷けた。 彼は語る。 「みんなの気持ちがわたしに集中してくるのは、講談の醍醐味。しかし、そんなときばかりではありません。先般の酒席での講談では、聞いてくれる人は一部の人だけ。気分が乗らなくなって、途中で投げ出してしまいました」 このとき諭してくれたのが、主催者である友人。 「久保さん。あんたは、8万の人たちに原爆講談を聞いてもらいたいと言っていた。それなら、1人でも、あるいは半分でも聞いてもらえれば、有り難いと思わねばならないではないか」 久保さんは、これを聞いて今もすごく反省しているという。
■1946年、国鉄に入社してから、長い間、職域演劇活動を続けた。1990年、国鉄を退職。1994年には、広島市文化振興事業団[現在の文化財団]評議員を委嘱された。このとき、久保さんはすでに64歳。講談を始めたのはこの頃である。 「被爆者は、言いたいことがたくさんあるのに黙ってしまったんです。しゃべってもメリットがないうえに、就職や結婚のことで差別を受けるからです。今では、被爆者も70歳から80歳になり、記憶も薄れてきています。そんなことで、代弁者として原爆のことを訴えていこうと思ったのが、講談を始めた動機です」 それから、出前講釈師緩急車雲助さんのエネルギッシュな活動が始まる。いろいろな場所での講談のほか、テレビ新広島「シルバー応援歌」の語りも務めた。最近、レパトリーは、原爆ものだけでなく社会的な歴史ものにまで広がっている。 行動範囲も国内だけでなく、韓国からハワイへと広がり、今月の末には渡米するという発展ぶりである。ハワイでは日系人だったので言葉が通じたが、アメリカでは 言葉が通じないので、プログラムに英訳した文章を書いておき、彼の講談はBGMとして聞いてもらうことにしている。なにしろ初めての試みなので、緊張しているそうだ。■この10年間の講談回数は、実に450回。つくった講談台本は13作品におよぶ。 ひとつの講談の台本を書き上げる期間は平均3〜4ヶ月。長いときには1年もかかる。綿密な実情調査ののち、資料整理から構成へと続く気苦労の多い仕事だ。 「どんなに権勢のある者も亡んでいきます。権勢を誇った平家も壇ノ浦の海の藻屑と化してしまいました。歴史は、有名な武将や政治家がつくったものではありません。百姓など庶民が作り上げてきたんです。 地方の琵琶法師は平家物語を語り、人の世の無常を語りました。そうして、庶民の生き様に光をあてたのです。 わたしは、『平成の琵琶法師』として、日のあたらない場所で懸命に生きた人の生き様を語っていきたいと念願しています」 このように語る久保浩之さんの目には、権力を嫌う強烈な反骨精神と人間を愛する温かい気持ちがあった。 |
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