久しぶりに曽野綾子さんの著書を読んだ。最近、曽野さんが保守系の論客であると新聞に書かれているのをみて、敬遠していた。右でも左でも偏ったイデオロギーの本はあまり好きでないからである。
ところが、この本を読んで思ったことは、曽野さんは右でもなく左でもなく、人生を深く生きている人だった。安部元総理の著書「美しい国へ」について書かれた一文が面白かったので、以下紹介する。
「美しい」という言葉・・・説明せず表現する難しさ
2006年5月に足の怪我をして1ヶ月入院生活したおかげで、私の生活は小さな変化をきたした。テレビを見なくなり、本の楽しみが増えた。それなのに安部総理の書かれた「美しい国へ」という本をまだ読んでいない。読みかけの本を読み終えてから、と思うだけの理由だ。 しかし、本当のことを言うと、題にはあまり惹かれていない。この理由について少し書いてみたい。
もちろん日本を美しくすることについては、私も百パーセント賛成だろうと思う。今の日本は醜い面だらけになっている。外国では売春婦でも、電車の中で化粧をしない。日本は、こんなことをする娘たちに、誰も注意しない国になっている。一般に「美しい」という言葉は多くの人に合意を得られる包容力の大きい形容詞だとされている。しかし言葉の専門家にとってはこんなにインパクトの弱い言葉もない。
私たちは作品を書く時、表現はするが、説明してはいけない、と言われている。「美しい」というのは、説明であって表現ではない。なぜなら「美しい」と思わせるのが表現なのであって、「美しい」という断定は説明になってしまうからである。
もちろん人によって、日本の中で美しく思われるものは違うはずだ。(中略)
つまり人の数ほど「美しい」と感じるものはあるのだ。そこがこの「美しい」という言葉の困るところである。「美しい」という言葉は何も表現していない。それは説明だから、人の心を打たない。
描写こそ表現する者の戦いの経過である。その結果として、自由に、奔放に、妥協なく、あるものを読者に「美しい」と感じさせる。これが描写の目的なのだ。だから私は、仕事をしていて、一瞬でも「美しい」と書きたくなったら、その場で執筆をやめることにしている。疲れてさぼりたくなっている証拠だからである。私は1年に1度くらいしか「美しい」という言葉を使わない。
こんな些細なことに総理が気を配られる必要はない。政治は細部にとらわれてはならない。しかし、「『美しい』という言葉は内容を空虚に思われますよ」と、注意する広報や出版社があってもよかった、と感じている。
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平和とは非凡な幸運
著者 曽野綾子
発行所 講談社
初版発行
2007年10月22日
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