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■四国
肉親が死ぬたびに四国巡りをしている。
最初は母の死に際して。
二度目は父の死に際して。
今回の四国巡りは死んだ兄の供養を兼ねている。
四国巡りというのは自分が背負った罪科の凍結の意味合いが深いわけだが、死者の供養のために巡るということもある。
では、その供養すべき死者とは一体どこにいるのかというと、位牌のなかでも雲の上でもない。これは私の考えなのだが、巡る者の心のなかにいる。
近しい人の死は何人においても、その心を波立たせる。その波の具合は海洋の波やうねりが千差万別であるように、それぞれの死によって異なる。この自らの心のなかの水のうねりや波を諌め、癒し、鏡面のような心に至ること。私はそれが同時に死者を供養することであると思っている。なぜなら死者は、その人に関わったヒトの心のなかにこそ存在するからである。
ちょうど世界や風景というものが、「私」が見たことによって存在するのと同じことである。
したがって死者の供養とは、私自身の供養でもある。
私自身の心が鏡面の境地に達したとき、死者は私の心から脱し、三途の川を渡るだろう。そして私の心にはただ死者の面影だけが居残る。
過去の二度の旅は相応のものを得た。はたして今回の旅が、そのような果報を私に与えてくれるものかどうかはまださだかではない。 |
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