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広島県熊野町から札幌まで1830km
電動車イスひとり旅
 中田 輝義さん





中田輝義さん
中田 輝義(なかた てるよし)さん


元フリーカメラマン


広島県熊野町貴船
E−mail terry A home.gr.jp  (Aは@)



 重症筋無力症の元フリーカメラマン中田輝義さんは、筋ジストロフィーと闘う札幌市の旧友を見舞うため、2007年、広島から約1800kmの距離を電動車イスで75日かけて旅した。携帯電話も持たず、サポートもつけず、厳しい旅だった。1日に何度もコンビニなどで電動車イスを充電し、行った先々で旅館を探して泊まった。雨に打たれ、寒さに震え、危険なトンネルも通った。
 中田さんは、旅の目的を「自分が生きていることを実感し、生きた証しを残す」ことだという。75日間の旅の一端を紹介する。
 

中田輝義さんの略歴
・1952年広島県生まれ。
・1972年、副睾丸がんと診断され、削除手術を受ける。
       術後、写真を志し東京へ行く。
・1977年、フリーカメラマンとして独立。
・1980年、新たな創作活動を求めて北海道に移住。
 「テル・フォット。オフィス」を開設。
・1984年、中田輝義写真集「カトマンズリポート」を発表する。
・1990年、北海道沙流郡平取町に移住。
・1995年、重症筋無力症発症。
・1996年、広島市の実家に帰る。
・2001年、エッセー集「つれづれの部屋」を自費出版。
・2007年、電動車イスひとり旅に出る。
・2010年、「電動車イスひとり旅」を発行。


重症筋無力症とは

 重症筋無力症とは、末梢神経が筋肉に接合する部分に障害が起きて、脳からの指令が筋肉にうまく伝わらなくなるために、全身の筋肉に力が入らず、疲れやすくなる病気。
 まれに、筋肉に脱力が急激に悪化し、呼吸もできなくなる症状(クリーゼ)が起きることもあり、注意を要する。新生児から高齢者まで、どの年齢でも発病するが、女性の方が多いとされている。
 厚生省の特定疾患(難病)に指定されており、平成21年では全国で16,431人の登録がある。









電動車椅子 セニヤくん


●e-mail 仲間
左 akemiさん
中央 ジェーソンさん(扮装)
YH福井青年会館にて。


20数年ぶりに会った
読売新聞の加藤仁さん、
新潟県国道116号線を歩く。


信濃川の有明大橋を超える。


小笠原康治さん
全国筋無力症友の会
秋田支部長


小雨のなか、秋田を出発。


函館山が見えた。
北海道だ!


駒ケ岳さんありがとう。


広島県熊野町をスタートして
75日目、
北海道難病センター前に
ゴールイン!
(読売新聞北海道支社提供)


 香西智行(一番右)さんと再会!


全国筋無力症友の会
北海道支部のみなさん


広島に生きて帰った!
広島空港にて。


●e-mail 仲間
左 fumifumiさん
右 kurikuriさん
中央 日野美枝子さん
全国筋無力症友の会
広島支部長



電動車イスひとり旅
著者 中田輝義
発行所 株式会社共同文化社
2010年11月25日発行
定価 1890円


■購入先
○株式会社共同文化社
tel 011-251-8078
fax 011-232-8228
→netでの申し込み


○オンライン書店アマゾン
○中田輝義 上記メール






電動車イスひとり旅(要旨)


■プロローグ・・・今ならやれる!
  


 熊野町福祉課より電動車イスがぼくのところにやってきた。そのとき、ハッと思いついた。この電動車イスで札幌へ行こう。北海道に住んでいたころの友人たちと再会して最後のお別れをしたい。
 これから僕は、だんだん体力も気力も衰えていくことだろう。このまま朽ち果てるなんて、僕にはとてもガマンできない。今ならやれる。やれる間にやっておこう。


 でも、現実にはいろいろな問題が山積している。まず主治医のT先生の了解をとりつけること。それからT先生にいろいろお願いした結果、「帰りは飛行機で帰ること」という条件で認めてもらった。


 電動車両メーカーの福祉用具専門相談員のNさんが、僕の旅を中止するよう説得に来られた。本社から業務命令があったとのこと。「セニヤカーは近所の散歩用に設計されたもので、長旅用のものではない。どんなトラブルが生じるかわからない」というのである。
 Nさんは僕の決心が固いのをみて、「当社のあるところをコースにしてください。何かのお役に立てるかも知れません」と言った。


■3月25日(日)・・・充電代1500円!


 熊野の里は盆地の中にあるので、どうしても峠を越えなければいけない。峠の下まで降りたとき気づいた。今日は日曜日、どこで電動車の充電しようか。
 ちょっと向こうにガソリンスタンドが見えた。
「電動車イスのバッテリーを充電させてもらえないでしょうか。普通のコンセントでいいんです。延長コードも用意しています」
「どのくらい時間がかかりますか」
「2時間くらいです」
 若い店員は責任者と相談した上、
「車のバッテリー代金と同じ1500円いただきますが、よろしいでしょうか」と言った、
 僕は想定外の返事にドギマギして
「それなら結構です」と、逃げるようにしてガソリンスタンドから出た。
 電動車両メーカーのNさんは、電気代は100円もかからないと言っていた。1500円も払っていたら、キャッシュカードの残高がたちまち0円になっちゃうよ。


 いつの間にか山道に入り人家がまばらになってきた。バッテリーの警告ランプが点滅してくる。僕はだんだん不安になってきた。いまさらガソリンスタンドに引き返すわけにはいかない。しばらく行くと、広島国際大学の学舎があり、そこにはコンビニがあった。コンビニでホットチョコレートを注文し充電を頼むと、若い店員があっさりと「いいですよ」と言ってくれた。


 安浦駅まで下りると、タウンページに掲載されていた旅館があった。素泊まり一泊をお願いすると、女将が僕と電動車を見て言った。
「何かあったらうちの責任になるので、他を当たってください」
 僕は憤懣やる方ない思いで、その場を立ち去った。それから2時間かけて安芸津に着くと旅館があつた。宿泊の許可が出るとホッとした。


■4月2日(月)・・・心から感動した「浜っ子作業所」。



 日生の町に着いたのは10時過ぎ。充電場所を探していたら、「浜っ子作業所」と書かれた看板を見つけた。40人〜50人くらいの人が働いている。
 中に入って充電を依頼すると、笑顔のさわやかな30代半ばの女性が延長コードをコンセントに差し込んでくれた。彼女はYさんといった。
 作業場では、身体障害者がお父さんやお母さんといっしょに仕事をしているようだ。わいわいがやがや、てきぱきと仕事をしている。そのうち、休憩時間になった。Yさんがインスタントコーヒーとお菓子を持ってきてくれた。


 Yさんに「浜っ子作業所」のことを聞いた。
 知的障害や身体障害を持つお父さん・お母さんは、わが子の行く末が心配でならなかった。私たちが死んだら、この子はどうなるんだろう。みんなで父母の会を立ち上げ、「浜っ子作業所」を設立した。Yさんもその1人。
 最初のころは、地域の理解も協力も得られなかったが、やがて多くの協力者もでき、念願の社会福祉法人の認可が下りるまで成長した。
 ここにいたるまで、お父さん・お母さんのどれほどの汗と苦労と涙と熱意があったことだろう。僕は心から感動した。
 どんな片田舎でも大都会でも障害者はいる。どこでも障害者たちは懸命に働いている。それがどれだけ尊いことか。


■4月5日(木)・・・杖をなくしたが・・・。


 718号線は産業用道路だった。狭い道路は車でごったがえしている。排気ガスと埃で咽喉がイガイガし、騒音で頭が痛くなってきた。しばらくして暖かくなると、睡魔が襲ってきた。惰性でハンドルを握り締めている。
 ふと我に返り、これは危ないと思ったら、杖がなくなっているのに気づいた。知らない間に落としたらしい。ここまでずっといっしょにやってきたのにと、がっくりした。


 明石の街に入ると、明石市立福祉総合センターがあった。受付に2人の女子職員がいる。電動車の充電をお願いすると、快く応対してくれた。いつものように少し居眠りすると楽になる。頭がすっきりしたところで、手をあげて合図したら、先ほどの女子職員の一人ががやってきた。
「実は途中で杖をなくしたんです。福祉センターに置き忘れられた杖がないでしょうか。後で必ずお返しします」
 女子職員は、「ちょっと待ってください」と立ち去った。しばらくして、彼女は白衣の若い女性を伴ってやってきた。白衣の女性が言った。
「この杖は、ずっとリハビリ室に置き忘れられていたものです。ちょっと短いですが、よろしかったらお使いください」


 僕は心からお礼を言った。
「実は広島から札幌の友だちのところへ、電動車イスでお見舞いに行くところなんです」と言って、札幌の香西さんからきた手紙を見せた。彼女たちは、手紙を読んだ後言った、
「手紙を見せて下さってありがとうございました。感激しました。どうぞ、札幌まで気をつけて行ってください」
 彼女たちは僕に大きな袋を手渡した。そのなかには、あめ玉やクッキーなどが入っていた。


■4月16日(水)・・・最大の難所を最悪の状況で行く。


 敦賀市市街地を離れると、ますます雨が激しくなってきた。ビニール傘を左手に持っていても、雨は全身に容赦なく降りかかってくる。大型トラックの風で傘は吹き飛ばされそうになった。国道は川のようになっている。このままでは風邪をこじらせてしまう。コンビニでビニールカッパの上下を買い、トイレでパンツも着替えカッパを着た。


 国道八号線の右側は切り立った絶壁、ガードレール1本へだてて左は断崖になつている。その下は敦賀湾。
 路肩がない双方1車線の細い国道は、峻厳な山と敦賀湾の間を縫うようにくねくねと通っている。
 道路に叩きつけられた雨水が空中に舞い上がり、霧のようになっている。そのためほとんど視界がきかない。
 多分大型車両の運転手には、道路の隅で動いている僕の電動車イスが見えないだろう。道路はもう川になっており、自動車が通るたびに、僕と電動車イスは、まるで大きなバケツで水をかけられたような状態になる。
 不思議なことに、僕はさほど怖いとは思わなかった。


■4月25日(水)・・・倶利伽羅トンネルを抜ける。


 倶利伽羅トンネルが見えてきた。レンガ造りの朽ちた入口には、木立がうっそうと茂っていて気味が悪い。歩道も照明灯もなく、中は真っ暗だった。入口の案内板には長さが962メートルと書いてある。今までで最長のトンネルだ。ちょっとイヤな雰囲気だった。


 僕は今までどれくらいトンネルを越えてきたんだろうか。長いのから短いのまで、数も覚えていない。
 歩道も照明灯もないトンネルの路肩を通っていると、大型トラックや乗用車が僕の肩先をかすめるようにバンバンすっ飛ばしていく。排気ガスで息が詰まる。路肩には泥たまりや水たまりができており、それを車が吹き飛ばす。僕はその不潔な水をしばしばかぶった。
 路肩にはいろいろな物が落ちていた。弁当柄、空き缶、ゴム長靴、スニーカー、シャツ、男物のパンツ・・・。鼻がひんまがるほどの悪臭を放っている。そんな落し物に気をとられ車道に飛び出したら、後ろからきた車にあてられ、それで一巻の終わり。トンネル内は緊張と不安の連続だった。


 それにもかかわらず、倶利伽羅トンネルの入口に立ったとき、不思議に心が平穏だった。イヤだとか、中に入りたくないという気持ちはなかった。トンネルがあるから入る、それだけだった。
 トンネルの中の耳をつんざくばかりの轟音も、やがて聞こえなくなった。生暖かい臭気や天井から落ちる水しぶきも気にならなくなった。
 意識が薄れたわけではない。むしろ五感のすべてを研ぎ澄ませ、緊張感をみなぎらせていた。何も考えず、頭の中は空っぽだった。それは不思議な時間の流れだった。気がついたらトンネルを出ていた。


■5月5日(土)・・・腹ペコペコのときに受けた親切。


 朝早く旅館を出発する。コンビニは一軒も見当たらない。実は僕はもう腹がペコペコ。昨日の朝からまともな食事をしていない。空腹で寒さが余計にこたえる。どこかに何かないかしらん?
 

 しばらく行くと、松の枝の手入れの行き届いた立派な門構えの家があり、その前で60歳ぐらいの男の人が草刈りをしていた。僕はそのご主人に、
「この辺りに食事できるところはありませんか」と尋ねた。ご主人は、
「どうしましたか」と聞き返した。
「僕は旅の者ですが、昨晩泊まった旅館は素泊まりで夕食も朝食もまだ食べていないんです」と答えると、ご主人は仕事の手を休めて、
「それは困りましたねえ。この先食堂はありませんよ。ちょっと待ってください」と言ってすたすたと奥の方へ行ってしまった。


 しかたがないのでその場にいると、今度は奥さんと一緒に出てきた。急いでおにぎりをこしらえたという。小さなお盆の上には、のり巻きのおにぎり梅干入り2個と漬物とあめ玉とペットボトルのお茶が載っていた。
 奥さんは有り合せのものしかなくて、ごめんなさいとおっしゃる。僕は感激でいっぱいになってしまった。ご主人は延長コードを持ち出して充電もしてくれた。
「眺めの良いところで食べたほうがいいでしょう」
と、ご主人は僕を抱きかかえて海辺の岸壁に座らせてくれた。
「ゆっくり召し上がり、終わったら教えて」
と告げた後、また仕事を始めた。


 おにぎりは温かくてほんのりと磯の香りがして、ちょうどいい塩加減だった。でもその塩加減には、僕の頬を伝う涙の味も加わっていたかもしれない。


■5月15日(火)・・・しょぼ降る雨のなか、
            五木の子守唄を口ずさむ



 ホテルを6時に出発。今日も雨。全身の疲れがピークにきているようだ。今日は、腰がちぎれるように痛くて、硬い電動車イスのシートに座っていられないほどだった。ふくらはぎの浮腫と足首の関節炎で、ソックスをはいていられない。ズック靴も脱ぎ捨てて裸足になった。


 海岸に面した酒田街道を一路北に向かう。誰とも会わない。車もほとんど通らない。ほんとうの「みちのくひとり旅」だ。しょぼ降る雨のなかの一人旅。熊本県民謡の五木の子守唄を口ずさんでいた。


  おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆 よか衆よか帯 よか着物(きもん)
  おどんが打っ死(ち)んだちゅうて 誰りゃ泣いてくりゅか 裏の松山 せみが鳴く
  おどんが打っ死(ち)んだば 道ばた埋(い)けろ 通る人ごち 花あぐる
  花は何の花 つんつん椿 水は天からもらい水
      ○勧進(かんじん)…小作人  よか衆(し)…お金持ち、分限者


 ああ、人間が生きていくことの悲しみって、いったいどこにあるんだろう?人間が生きていくことの喜びって、いったい何なんだろう?
  

■6月7日(木)・・・ついにゴールイン!


 午前11時、北海道難病センターに向かった。
 難病センターの前には、20人〜30人の人たちが横断幕や花束を持って手を振っている。報道陣も来ていた。ちょっと恥ずかしかった。
 僕はいったん息を吸い込んで、
「ただいま!」と言ってゴールのテープを切った。
 拍手と歓声が起きた。全国筋無力症友の会北海道支部長の東谷美智さんから、月桂樹の冠を頭にいただいた。記念撮影やインタビューなどのセレモニーが終わると、みんな静かに散会していった。


 やっとひとりになった。「旅」は終わった。無事札幌到着を果たしたのに、言葉に名状しがたい空虚感が僕を襲ってきた。この感情は何だろう。旅の途中、誰もいない国道や原野にいたときも孤独を感じなかったのに、今、この部屋にいるとすごく寂しい。それをどう整理したらよいだろう。

 
■エピローグ・・・生きていてよかったね。  


 6月8日、香西さん宅へ向かった。
いよいよ旅の最終目的地だ。
 香西智行さんを見ると
「来たよ。来たよ」と声をかけて、彼の身体を思い切り抱きしめた。以前から痩せていた身体がさらに細くなっていた。奥さんの光子さんとも感激の再会のハグハグ。
 香西さんは
「生きていてよかったね」と言った。僕も
「生きていたからこうして会えたんだね」と答えた。
 光子さんは
「中田さんは必ず来ると確信していた。それは理屈を超えた予感だった」と言った。
 その一言以上に、僕を迎えてくれる歓迎の言葉はないと思った。


 それから4ヶ月後の10月30日の夜、香西光子さんから電話があった。一瞬悪い予感がした。香西智行さんの死の知らせだった。風邪をこじらせて入院中、肺炎を併発したという。眠るような最期だったと光子さんが言った。


 「電動車イスひとり旅」は僕のためだけのものではなく、香西さんを励ますため、そして僕らと同じ難病患者、身体障害者のためのものでもあった。だからこそ勇気をもって最後まで頑張れたのだと思う。
 今回の「旅」では実に多くの人たちに助けられた。それらのひとつが欠けても僕の「旅」は成立しなかっただろう。
 心より感謝申し上げます。ありがとうございました。



2011.3.10/戸村彰義
    


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