 |
|
佐々岡真司さん 42歳
中国放送(RCC.TBS系列)野球解説者
東京放送/TBSテレビ・ラジオの解説者も兼任。
元広島カープ投手
1991年 17勝 最多勝利、最優秀防御率、
シーズンMVP、沢村賞、ベストナイン
1999年 ノーヒットノーラン達成
2003年 100勝100Sを達成
2007年 現役引退 |
|
佐々岡真司さんは、2007年引退したばかりの広島カープの名投手です。「好きな球団で18年間も充実した投手生活が送れたのがなにより嬉しい」という佐々岡さんに、プロ野球に入るまでのプロセスや奥さんの内助の功などについてホンネで語ってもらいました。
※本稿は、佐々岡真司さんと(株)第一ビルサービス社員との雑談をとりまとめたものです。
((株)第一ビルサービスは、佐々岡真司さんに運動公園等の運営アドバイザーを昨年10月よりお願いしています)
|
|

佐々岡真司さん |

佐々岡真司さんと
(株)第一ビルサービスの社員 |
|
Q 佐々岡さんの広島カープでの実績は、本当に素晴らしいですね。幼い頃から類まれな野球の素質があっことと思います。今日は、プロ野球選手になるまでのプロセスやプロ野球に入ってからの苦労談などをホンネベースでお聞かせください。
佐々岡 困りましたね。子どものときから格別に秀でた野球の素質があったわけではありません。背もそれほど大きくありませんでしたしね。
Q それは意外ですね。当然、野球の超エリートかと思っていました。野球を始められたのはいつからですか。
佐々岡 5歳のとき、母がバットとボールを買ってくれました。母と2人の母子家庭だったものですから・・・。
Q お母さんとお2人だったら、さびしかったでしょう。
佐々岡 普段は友だちと遊んでいたものですから、そうでもなかったんですが、土曜日、日曜日はみんな家族連れでどこかに出かけるのでさびしかったですね。
Q 野球のエリートではないと言っても、将来を暗示するようなところがあったのでは?
佐々岡 毎年、地域対抗のスポーツ大会でソフトボール投げがあります。小学校3年生のときから出場していましたが、4年生のとき43mの記録を出しました。この記録は31年間破られていません。そうしてみると、肩だけは強かったんですね。そのほかに変わったことといえば、1日1リットルの牛乳を飲んでいたくらいです(笑)。
Q 肩が強いということはすごい素質ですね。牛乳も身体を作るのにたいへん役に立ったことでしょう。チームで本格的に野球を始められたのはいつですか。

赤ちゃんの時代
|

幼年時代
|

金城中学時代
(右 お母さん)
|

浜田商業高校時代
|

NTT中国時代
|

広島東洋カープ時代/1990年
|

広島東洋カープ時代/1991年
|
|
佐々岡 小学校5年のとき、地域の雲城スポーツ少年団に入りました。20人くらいの野球チームで、ぼくはサードを守りました。楽しければよいというチームで、本格的な野球には程遠かったですね。その後、金城中学校に進学しましたが、依然として背が伸びないのでずっと1番バッター・サードでした。本格的にピッチャーになったのは高校のときからです。
Q 高校はどこへ行かれましたか。
佐々岡 浜田商業高校です。野球の上手な人たちはみんな浜田高校に行きました。浜田商業高校は女性が多い学校で、野球部は選手が少なく力もあまりありませんでした。
Q とても信じられないような話ですね。
佐々岡 それが本当なんです(笑)。高校1年2学期のとき、3年生が野球部を引退しピッチャーがいなくなったので、ピッチャー探しが始まりました。その結果、ぼくが一番ピッチャーらしい体格をしているということで、お鉢が回ってきました。肩が強いことを買われたんですね。
Q 自宅と浜田商業高校は近かったんですか。
佐々岡 距離的には近いんですが、バスの回数が非常に少なく練習に支障をきたすので、浜田市内で下宿しました。母と離れて生活をしたのはこのときが初めてです。
下宿屋を経営していたのは老夫婦でしたが、ぼくをわが子のように可愛がってくれました。お2人は漁をしていたので朝から刺身、それもどっさり出ました。家では好き嫌いがありましたが、ここでは残してはいけないと、一所懸命に全部食べました。
それが良かったのでしょうね。背が次第に伸び始め15cmも高くなりました。プロに入ったとき、おじいちゃんはすでに亡くなっていましたが、まだ健在だったおばあちゃんはものすごく喜んでくれました。
Q おじいちゃん・おばあちゃんとの出会いは運命的ですね。高校での野球生活は順調でしたか。
佐々岡 幸いなことにチーム力も上がり、3年生のときには県予選の準決勝まで進みましたが、残念ながら敗退しました。そのときのショックは大きく、「自分の野球人生はこれで終わった。野球から足を洗い母の面倒をみよう」と思いました。ところが3年2学期になると、プロ野球12球団が挨拶に来て、「素質があるのに野球を辞めるのはもったいない」と説得されたんです。しかしPL学園の清原選手や桑田選手と比較すると、まるでレベルが違うので、いろいろ考えたあげく社会人野球の道を選ぶことにしNTT中国に入りました。
Q NTT中国はいかがでしたか。
佐々岡 入ってビックリしたんですが、監督が非常に厳しい人で、朝6時に起きてから一日中、徹底的にしごかれました。本当につらかったですね。この時期を乗り越えられたのは、「早くプロになってここから逃げ出したい」といつも思っていたからだと思います。
Q NTT中国には何年いらっしゃいましたか。
佐々岡 4年です。プロ野球は肩が完全によくなってからと思っていましたので、4年過ぎたとき広島カープに入団することを決断しました。広島カープは幼いときから熱烈なファンでしたので迷いはありませんでした。
問題は母で、プロ野球に行くのは猛反対。プロ野球に入ると、遠く離れていくのではないかと不安になったのでしょう。NTT中国の監督に母を説得してもらい、ようやく許可を得ました。母には、プロになる条件として毎日電話をかけることを約束したので、高校のときからカープ選手を引退するまで毎晩電話しました。
Q 佐々岡さんはやさしいんですね。結婚されたのはいつですか。
佐々岡 妻と初めて会ったのはゴルフの打ち上げのときでした。彼女はまるで野球のことを知らないんです。それが良かったんですね。彼女と付合い始めた頃は、カープが優勝しぼくが最高殊勲選手に選ばれたときでした。広島の街をデートするのがたいへんで、いつもかなりの間隔を空けて歩いたんです。彼女が可哀想でしたね。それから3年ばかりして結婚しました。
Q 奥さんの内助の功が大きかったと聞いていますが・・・・・。
佐々岡 妻は料理が好きで、毎日4品くらいおかずを出してくれました。身体が資本なので有難かったですね。1994年には極度なスランプに陥り気分的にもずいぶん落ち込みましたが、そんなぼくを励ますため、本から参考になることを抜書きして部屋や便所などに張り出してくれました。メンタルな面でも救われましたね。1999年には、速球投手から変化球投手にチェンジしましたが、そのときには素晴らしいトレーナーを探し出してくれました。
Q お子さんは?
佐々岡 子供が2人います。なにしろ夜はいつも遅いし遠征にいくとずっと会えないので、何もかも妻に任せきりでした。
Q 素晴らしい奥さんですね。いつも有難うと感謝されていましたか。
佐々岡 本人に向けて、そんなことを言ったことはありませんが、心の中ではそう思っています。
Q カープでの苦労も多かったのでは?
佐々岡 小学校のときから熱烈なカープファンでしたので、メジャー志向もなければ他球団に行きたいと思ったこともありませんでした。18年もの間、好きな球団で好きな野球をやらせてもらい、しみじみ幸せを感じています。
Q カープファンとしては嬉しい言葉ですね。今日はホンネの裏話ばかり聞かせていただき有難うございました。これからも内助の功を得ながら、広島カープや地元の発展のために力を尽くしてください。
|
|
|
|
 |
|
佐々岡真司さんの略歴
| 1967年 |
8月26日、島根県金城町生まれ。 |
| 1974年 |
島根県雲城小学校を経て金城中学校へ。 |
| 1983年 |
浜田商業高校に入学。3年生のとき、県予選ベスト4の成績を残した。 |
| 1986年 |
NTTに入社しNTT中国に入団。第60回都市対抗野球大会に三菱重工広島の補強選手として出場。 |
| 1989年 |
希望球団広島東洋カープにドラフト1位で入団。 |
| 1990年 |
2桁勝利、2桁セーブ。当時の新記録17試合連続セーブポイントを記録。 |
| 1991年 |
17勝 最多勝利、最優秀防御率、シーズンMVP、沢村賞、
ベストナイン。 |
| 1996年 |
自己最多の23セーブを記録。 |
| 1999年 |
15勝。13完投、5完封。中日ドラゴンズ戦でノーヒットノーランを達成。 |
| 2003年 |
横浜ベイスターズ戦で、史上6人目となる100勝100Sを達成。 |
| 2006年 |
8勝、先発100勝をあげる。 |
| 2007年 |
現役引退。野球解説者に転身。 |
|
|
|
|
|
|
|
| 2009.1.26/戸村彰義 |
バックナンバー
|