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ポリオで麻痺した両足を克服して生きる!
株式会社 ロジタント 代表取締役
 総合物流・経営コンサルタント 吉田祐起さん



吉田祐起(よしだゆうき)さん

株式会社 ロジタント 代表取締役
総合物流・経営コンサルタント
健康・生きがいづくりアドバイザー

広島県東広島市八本松南6−7−17 

Tel 082-428-4300
Fax 082-428-6789
e-mail yoshida@c-logitant.com
URL http://www.c-logitant.com


ポリオで右足は全部麻痺、左足は膝から下が麻痺という大きな障害をもちながら、総合物流コンサルタントとして、また健康生きがいコンサルタントとして、全国規模で活躍しているスーパーマンがいる。吉田祐起さんである。
吉田さんは、起伏の大きい波乱万丈の人生を第一毛作、第二毛作、第三毛作と区切っているが、これらの人生遍歴は、自分の意志によるものではなく宿命的な人生転換よるものだという。
現在、吉田さんは75歳。その年齢を感じさせない、パショナルでダンディなジェントルマンである。そのエネルギーはどこからくるのか、彼の人生遍歴を辿ることにした。


自宅に構えたSOHOにて

■生い立ち/1931〜1946



 彼は、1931年10月、広島市中区大手町で生まれた。3人女の子が続いた後の男の子ということで、両親の期待は大きかったが、生後10ヶ月でポリオに罹患、歩行が困難になった。そのときの両親、とりわけ母親の悲嘆は、なみなみならぬものがあったという。


 彼は、当時を語る。
「小学校に上がる直前まで歩けなかったので、外へ出る時は、いつもおふくろの背中でした。ハワイ生まれのおふくろは、ぼくをおんぶして歩くとき、left right left rightと、正確な英語の発音でリズムをとりながら歩きました。それを毎日聞いているうちに、ぼくの頭に、正確な英語の発音が染みつきました。
 もう1つ、おふくろがいつも言っていたことがありました。
『ユウキよ、お前は人の二倍・三倍の努力をしてはじめてイーヴンになるんだよ』
 ぼくの努力型ハングリー精神は、このときに育まれたのだろうと思います。身体の不自由なことについては、周囲から可愛がられて育ったせいか、悲壮感やコンプレックスやひがといったものは、あまりありませんでした」

 
 1945年8月、広島市に原爆が投下されたとき、彼は学徒動員で勤務先の広島電鉄本社事務所にいた。原爆のため倒壊した建物の下敷きになった彼は、いったんは死を覚悟したが、折り重なった木材の間に明かりを見つけ、無我夢中でよじ上って脱出、九死に一生を得た。それから棒切れを杖に不自由な足をひきずり、我が家に向けて死に物狂いで歩いた。


■第一毛作/1947〜1959


 終戦後、家族が集まり、しばらく平和な暮らしが始まったが、やがて、どこにもケガのなかった彼の弟が原爆症で死亡。その1年後には、今度は父親が労災事故で急死した。それを機に、彼は一家の生計の中心になることを決意し、(株)藤田組に入社するとともに、定時制の工業高校に入った。


 中学から高校にかけて彼が一番情熱を傾けたのは、正確な発音で話す実用英語の習得で、高校一年のとき、初めて開かれた広島県高校英語弁論大会に出場、優勝を果たした。これが縁となり、翌年の弁論大会で優勝した村上芳野さんと交際、大きな影響を受けた。さらに1955年には、中国新聞に掲載された米人ポリオ女性アンアダムズさんと文通するようになり、多大な薫陶を受けた。彼女から贈られた杖は、半世紀にわたって彼の第三の足として活躍した。
 

 (株)藤田組への入社は義兄の縁によるもので、義兄の勧めにしたがい、『名人帯鋸目立師』のところへ弟子入りし、短期間で鋸目立ての秘伝をマスターした。
「義兄は、お師匠さんに8000円ものお金を支払ったんです。当時の月給は、最高で2000円くらいでしたから、それがいかに多額の金額であったか理解していたたげると思います。おかげで、ぼくは、高度な技術を持った職人サラリーマンとしてスタートできました」


 1955年、アメリカの施設CIE図書館で、本を読んでいたとき、日本では考えられないような帯ノコ(バンド・ソー)の写真を発見した。


「そのときの感激はものすごいもので、むさぼるようにページをめくりました。そして連続して本を借り出し、懸命に書き写しました。その結果、2つの発見をしたんです。1つは帯鋸アセチレンガス溶接、1つは同熱処理腰入れ技術で、日本にはない画期的技術でした。さっそく周囲の人たちに話しましたが、誰もホンキにしなかったので、自分1人で研究することにし、アメリカの会社などに数十通の手紙を送り資料をとりよせました。それから苦労の末、2つの新技術を導入するとともに、独自に3つの実用新案を取得したんです。それを機に、脱サラをし個人事業化しました」


 その後、事業は順調に推移し膨大な利益も得るとともに、新技術の普及や発明商品の販売のため全国を講演・実演し、関係者からの注目も浴びた。このような彼に転機が訪れた。1959年、縁あって運送会社の娘と結婚、そのため、順風漫歩の事業から全面的に撤退を余儀なくされることになるのである。


平成16年出版した
トラックドライバー
帝王学のすすめ

■第二毛作/1960〜1992


 1960年、トラック運送会社の社長だった義父が急逝した。創業者一族は、後継者不在のため身売り寸前となった会社の事業継承を吉田さんに要請、彼はやむなく、これまでかなりの収益を得ていた事業を他人に譲り、当社の代表者を襲名することに決意した。
 

 それから、32年間、M&A(企業合併・買収)などを経て経営多角化を推進、グループ7社による総合物流企業に育て上げた。安全教育にはことのほか力を注ぎ、任期中の死亡事故はゼロという輝かしい記録を達成した。そのほかに、優良申告法人表敬を20年間という名誉ある実績も残した。


 このような事業拡大にともない、労働組合の設立申し入れがあった。そのうち2度までは握りつぶしたものの、3度目はやむを得ないと判断しあっさり承認。それからは近代的労使関係の樹立に努力、1983年からはディスクロージャー体制を確立した。
 社外活動もめざましく、全ト協の「秩序専門委員」等を務めるなど、多数の公職を歴任、精力的にこなした。


 このように、寝食を忘れ事業経営に没頭した彼だったが、ディスクロージャー体制など、経営のあり方をめぐって、妻を始めとした創業者一族と意見の食い違いが生じ、やがては埋めがたい亀裂に発展。彼はやむなく、妻と離別、運輸大臣表彰の受賞を機に、会社から全面的に撤退した。同時に多数の公職からも身をひいた。


 彼は、当時を回顧してつぎのように語る。
「『得るは捨つるにあり』という言葉があります。32年間にわたって育て上げたすべてのものを捨てたがために、実に多くのものを得ました。1つは新しい妻を得たことです。彼女とは、夫婦別姓のまま、相互に深く理解しあうパートナーとなっています。もう1つは、足に補装具を取り付けた結果、杖なしで歩けるようになったことです。これは長年の念願で、ものすごく大きな感動でした。ちなみに62歳にして初めて、身体障害者手帳なるものをもらったんです」


■第三毛作/1993〜


 1993年、株式会社ロジタントを設立し、総合物流・経営コンサルタントに転進した。それこそ、丸裸からのスタートだった。
 なお、、ロジタントは彼の合成語で、次の言葉からなっている。
Logistics  物流   Consultant
Logic  正しい論理  Consultant


 当時、トラック運送業界に参入する条件として最低車両数規制が設けられていたが、彼はかねてから、この個人トラック制度(オーナー・オペレーターシステム)に一家言を持っていたので、これを経営コンサルタントの仕事の柱にしようと考えた。そこで、オーナーオペーレーターシステムが成熟しているアメリカに渡り、1ヶ月間各地で取材しようと思った。
「この計画を話したら、親戚や知人など、周囲の人たちから、1ヶ月もアメリカを旅行するのは無謀だと猛反対されました。もちろん私の身体を気遣っての反対でしたが、結局、強行することにし、1993年10月出発しました」


  アメリカの1か月間にわたる旅は、非常に実り多いものであった。数多くのオーナーオペーレーターとのインタビューを通じて、彼らの経営者としての自負心と使命感の強さを肌で感じ取った。運送業界の人たちとも幅広く接し、多くの資料や貴重な意見ももらった。
 帰国すると、これらの体験記を業界紙につぎつぎ発表、大きな反響を呼んだ。さらに2004年には、これらを集大成した単行本「トラックドライバー帝王学のすすめ“ザ・プロフェショナルズへの教科書”」を出版した。


2005年4月
SAM国際流通賞受賞



 彼のロジタントでの活動は、はや14年にも及ぶが、業界紙等への執筆活動のほか、地場や東京の運送会社などの顧問活動をしたり、広島県安全運転管理協議会の「法廷講習」選任講師として経営陣向けの講習を担当したり、、就職促進セミナーの講師や雇用能力開発機構の総務事務センターの講師などを務めたりするなど、超多忙な日々を送っている。


 2005年には、SAM国際流通賞を受賞。アメリカアリゾナ州ラスペガスで開催されたSAM国際大会・受賞晩餐会で、350人を前に英語でスピーチ、参加者総立ちの大拍手を受けた。⇒吉田祐起スピーチの内容


 彼は持論を次のように語る。
「安全運転の原点は、技術(スキル)ではなく心がけ(ウイル)です。どこへ行っても、これだけは心を込めて説いています」
 生涯現役の秘密を聞くと、
「私の健康管理は、独特で、自己流ストレッチ体操と朝風呂を、毎朝1時間半、35年間続けています。風呂では、英語の文章を声高らかに朗誦しています」と答えた。そうして、第四毛作について付言した。


「これまでの人生遍歴は非計画的でしたが、第四毛作についてはこれまでとは異なり、意識的に行動したいという気持ちがあります。例えば、原爆の生き残り人間として、被害者意識からでなく、人間を狂気に駆り立てる戦争を回避しなければならないという視点から、英語による原爆語り役をやりたいと思っています」
 75歳にして、ホームページビルダーを今からマスターするという彼は、強烈な努力の人。これからも実り多き日々を開拓していくことだろうと思った。


吉田祐起さん略歴
1931 広島市に生まれる。生後10ヶ月でポリオ罹患。両足の機能麻痺。
1945 被爆。九死に一生を得る。翌年、実父災害で死亡。
1947 (株)藤田組入社。広島市立広島工業高校入学。
1948 広島県高等学校英語弁論大会で優勝。
1951 広島市立広島工業高校卒業
1954 米国の2つの新技術導入。実用新案3件取得。
1955 脱サラ、個人事業化。
1959 結婚
1960 トラック運送会社社長。これまでの事業はすべて清算。
1989 離婚
1992 運輸大臣表彰受賞。トラック運送会社引退。
舗装具着用。杖なしで歩けるようになる。再婚。
1993 (株)ロジタント設立。アメリカ取材旅行(1ヵ月)。
2004 「トラックドライバー帝王学のすすめ」出版。
2005 SAM国際流通賞受賞。

2007.6.8/戸村彰義

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