カンボジアからベトナム、それから日本へ
目まぐるしい人生を生きてきた
葉沢業久(はざわなりひさ)さん


葉沢業久さん 
1969年 カンボジア生まれ


有限会社三金貿易  代表取締役


〒731-5116
広島市佐伯区八幡2丁目6−22−306

Tel 082-928-8126
Fax 082-928-8127


sankinstrade@mist.ocn.ne.jp
http://www.seppia.com/sankins/index.html

「カンボジアからベトナム、それから日本へ」命がけの逃避行⇒

葉沢業久さんは元カンボジア人。ポルポト政府の虐殺の嵐の中を生き延び、日本に帰化した。流暢に使いこなせるカンボジア語・ベトナム語・中国語(北京語・廣東語・潮州語)・英語・フランス語・日本語を駆使して司法通訳や通訳ボランティアするなど、多方面にわたり活躍している。

三金貿易の商品

印泥

旧拓

書籍

アンコールビール
■葉沢業久さんは、2004年に立ち上げた有限会社三金貿易の仕事をライフワークとしている。


「私はカンボジアに10年、ベトナムに8年、日本に19年住みました。この3国のお役に立ちたいと思い、三金貿易を立ち上げたのです。主な事業内容はカンボジア・ベトナム・中国との国際貿易と通訳・翻訳業務で、商品は、アンコールビール・新拓・旧拓・印泥・唐筆などです」
 このように語る葉沢さんの日本語は完璧そのもの。その風貌も典型的な日本人で、とてもカンボジア出身者には見えない。
 

 彼のカンボジアでの名前は「EP NGHIEP HIM」(イエップ・ニエップ・ヒム)。1969年8月21日、プノンペンの裕福な華僑の家に生まれた。6歳の時、ポルポト内戦が始まり、一家はジャングルに強制連行される。それから12年間、カンボジアのジャングルからベトナムの難民キャンプへと悲惨な日々を送ったが、葉沢さん一家は幸運にも生き延びて、1987年、念願の日本へ入国した。(詳細⇒)


■日本では、まず最初に神奈川県大和市にある難民定住促進センターに入り、6ヵ月間、日本語の基礎と生活習慣を学んだ。
 それから、一家は広島に移住。彼は自動車部品メーカーに就職した。
 その会社で、日本の人事システムを知り衝撃を受ける。


「入社して3ヶ月目の大学卒社員が係長になったので、びっくりしました。それにひきかえ、私の上司の係長は25年も務めた大ベテランなのに、高校を出ていないため、それ以上の地位はのぞめないというのです。
 それなら自分は勉強して大学へ行こうと思い、周囲の人に打ち明けたら、難民のくせに贅沢だと言われました」


 この周囲の言葉は、かえって彼の決意を固まらせた。さっそく夜間の中学に入学し2年間で卒業、それから夜間高校に4年間通い卒業した。


「当時はアジア大会があり、ボランティア通訳などで毎日がとても充実していました。それにラジオ番組やテレビ、新聞などにも取り上げられ、本当に忙しい日々でした」と当時を振り返る。

難民定住促進センターにて
日本語学習中

難民定住促進センター卒業


 念願の大学については、授業料の高い私立大学は避け、広島大学を志望することにした。
「広島大学を受けると言ったら、みんなに笑われました。昼間の高校を出ても難しいのに、夜間の高校ではムリだというのです。その後、運よく推薦入学で合格できたのですが、そのときは、本当に夢のようでした」


 27歳になった1995年は彼にとってまさに画期的な年で、広島大学経済学部に入学するとともに、日本への帰化をはたしイエップ・ニエップ・ヒムから葉沢業久(はざわなりひさ)に変わった。
 葉沢業久という名前の由来を尋ねると、イエップ・ニエップ・ヒムと深いかかわりがあり、華僑七代目であることを表しているとのことだった。
 広島大学もその後順調に卒業した。


 彼の職業歴をたどると、18歳から8年間自動車部品会社に務めた後、仏壇店に3年、金型製造会社に3年、貿易会社に3年と実に多彩だ。
「どの会社でも一生懸命やりましたので、皆さんに可愛がっていただき、本当に充実した日々を過ごすことができました。ずいぶんたくさん勉強させていただき感謝しています」


 日本に来てから19年、まさに超特急で転進を続けてきた葉沢さんだが、将来への思いをつぎのように語る。
「常に初心にもどり、チャレンジ精神を失わずに頑張っていきたいと思っています。そうして、将来カンボジアに学校を建設し、恵まれない子どもたちの役に立ちたいと念願しています」
 このように語る彼の表情は非常に明るい。これを見て、彼は幼いときの貴重な体験を生かすためにも、今はじっくり勉強して足元を固め、人間としての大成を目指すときかも知れないと思った。

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