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■葉沢業久さんは、1969年、華僑7代目としてプノンペンで生まれた。父親は貿易商だった。祖父母・父母・姉・妹・弟など30人の大家族が、三階建ての大きな家に、使用人3人、ベンツ3台という裕福な環境の中で何一つ不自由なく暮していた。 その平和が無残に打ち破られたのは1975年、彼が6歳頃のことだった。 メコン川の対岸からやってきた船から黒装束の兵隊が降りると、住民に無差別に発砲、殺戮を始めたのである。ポルポト兵の出現だった。その様子を、子どもたちは家の中で恐怖に震えながら見ていた。 こうしてプノンペンを制圧したポルポト政権は、都市部の市民を着の身着のままで強制的に地方の農村部に移した。逆らうものは容赦なく殺した。 国内を平定すると、私有財産の没収、貨幣制度の廃止、電話・郵便・ラジオ等の通信機関の廃止、バス・鉄道等の移動手段の廃止、すべての教育機関の廃止、仏教の廃止など、およそ常識では考えられない非常識な政策を強制、異議を申し立てるものは、すべて処刑した。 この原始共産制を実験したポルポト政権は、ベトナム軍が1979年侵攻するまでの約4年間に、実に200万人の人たちを虐殺した。この間に病死した100万人を加えると、3人に1人が死亡したと言われる。 葉沢さん一家もジャングルへ強制連行され、家族はちりぢりばらばらになった。 彼は語る。 「弟・妹は別のところに連れて行かれました。大人は強制労働をさせるため、遠方に連行されました。9歳の姉も青年部隊に入隊、重労働に従事させられたのです。私の仕事は、田植えや稲刈り、牛糞の収集作業などでした。」 「食事は、ほんのわずかしかありませんでした。従姉の1人はひもじさに耐えかねて、食堂のさつまいもを盗んで食べたところ、これが露見、袋に入れられ殴り殺されたのです」 「ジャングルには30mくらいの草が茂り、毒蛇や蛭(ヒル)、虎などが生息していました。 蛭は耳やへそから体の中に入り、体内の血を吸ったり、あるいは脳内の血を吸ったりするため、命を落とす人もいました。 虎に追いかけられたこともありした。裸足で歩くので、大きなトゲをしばしば踏み抜きました。こんな劣悪な環境の中で、蛙やバッタ、コオロギ、蛇などを捕まえて食べ、飢えをしのいだのです」 「父母は、週に1回くらいくたびれはてて帰ってきました。その頃、私も弟も妹も、悪性の伝染性皮膚病にかかっていたため、その痛みに堪えかねて夜通し泣きました。父は疲労のあまり八つ当たりしましたが、母は残しておいた自分のご飯でおかゆを作り食べさせてくれました」 ■こういったどん底の生活に、大きな転機が訪れた。1979年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻、ポルポト軍が敗れたのである。そのためポルポト兵の見張りは手薄になり、「逃げるなら今だ」と、葉沢さん一家など6家族が示し合わせ、深夜、ジャングルを脱出した。 「私たちは、ジャングルや山、渓谷を越え、1ヵ月あまりかけてプノンペンへ行く道を選びました。 他にもたくさんの人たちが逃亡しましたが、中には地雷にあたったり、毒蛇やサソリに噛まれたり、狼や虎に襲われたり、ポルポト兵に出会ったりして命を落とした人もいました。 幸いにも私たち一家は、みんなプノンペンにたどりつくことができたのです」 こうして苦心惨憺のうえ、ようやくたどり着いたプノンペンだったが、かって住んでいた家は跡形もなく、バナナ畑に変わっていた。 「そのとき、両親はたいへん落胆していましたが、仕方がないので椰子の葉や竹などで小さな家を建て仮住居にしました」 「3ヶ月過ぎたある日のことでした。私が草原に連れ出した牛が、地雷を踏んでぶっ飛ばされたのです。私は幸いにも無事でしたが、家族や親戚の者が集まり、このままでは危険なのでベトナムへ脱出しようということになりました。 そこで、母が隠し持っていた貴金属を売り払って資金をつくり、家族は安全のために3組に分かれメコン川を渡ったのです」 ■ベトナムのホーチミン市に着くと、昔、日本軍が建てたという団地に住んだ。後にその家屋を購入したが、持ち主から権利書をもらえずお金だけを騙し取られた。 それから数ヶ月後、ベトナム政府がカンボジアからの不法入国者を難民キャンプ(国連が管理)へ収容し始めた。難民キャンプには、環境の劣悪なキャンプと比較的良いキャンプとがあり、後者には、海外の親戚をたよりに海外への移住を希望している人たちが収容された。
「私たちの家にも夜半に武装した兵隊がやってきて、全員をトラックに乗せ難民キャンプに強制連行しました。もちろん、家は没収されました」 「私たちが収容されたのは、ミートォーという非常に条件の悪いキャンプでした。 飲料水にしていた川の上流では、ベトナム原住民が牛・家鴨などを放ち飼いし、その糞尿が川に流れ込んでいました。川の水質は極端に悪く、酸性や塩分の濃度が異常に高かったので、私は腎臓結石になつたのです。 住まいも劣悪で床はなく、雨が降ると、粘土質の地面は泥んこになりました」 ミートォーキャンプに住んでから3年を過ぎた頃、かって伊藤忠商事に勤めていた親族が、葉沢さん一家を日本に移住させる手続きを始めた。このため、一家はより条件の良いトウダックキャンプへ移った。 「新しいキャンプは、トタン屋根で床も壁もセメントでした。収入がないので、庭に野菜を植えました。 このキャンプには4年間いましたが、なにより良かったのは、いろいろな言語を習ったことです。朝9時からはベトナム語、10時からは中国語、昼の1時からはフランス語、2時半からは英語といった具合でした」 ■1987年7月29日、日本政府の許可を得て念願の日本へ渡った。ポルポト兵にプノンペンを追われたとき6歳だった葉沢さんは、18歳の青年に成長していた。 日本では、当初、神奈川県大和市にある難民定住促進センターで6ヵ月間日本語の基礎と生活習慣を学び、その後、広島に移り住んだ。 「祖父は10年前に亡くなりましたが、祖母は現在86歳で広島市に住んでいます。両親は東広島市でカンボジア・ベトナム料理店を開いています。こうして、みんな元気に暮せているのは、先祖の徳のおかげと感謝しています」 |
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