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藤原隆雄さん(56歳)は広島市在住の写真家で、三十数回の写真展を開くなど精力的な写真活動を行うかたわら、NPO港町宇品共和国の理事長として地域の活性化に努めたり、四国霊場八十八ケ所歩き遍路の旅に出かけたり、宮島の頂上弥山への道を紹介する記念誌を制作したりしている。
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遍路の旅 2003年
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藤原隆雄写真展「水平線の彼方に」
2005年2月
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NPO港町宇品共和国
1998年 設立
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日本丸
2004.10 宇品港寄港
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◆藤原さんの拠点・スタジオタカオは、宇品5丁目電停のすぐ前のタカオビル2Fにある。
見るからに個性的な風貌なのに、予想と違って静かな語り口に意表をつかれた。
「友人から、この静かな話し方に騙されると言われます。実際には激情家で、かっとなると手がつけられないところがあります。それに、いったん決めたらなかなか変更しません。
例えば、役所へ陳情するときにはコネを使ったらといわれます。これが好きでないんですね。一生懸命やれば、必ず道は開けると思っています。カーブは嫌い、直球が好きなんです」
39歳のとき、宇品地区を中心に広島市を活性化したいと、港町宇品共和国を設立した。
「17年前、有志が集まり、宇品港でイベントを開催したら、なんと12000人集まったんです。地元の人たちとのコミュニケーションが不足していて、不評を買うというアクシデントがありましたが、花火大会の日の夜だけでなく、昼間も盛り上げたいという目的は達成できたと思っています。
それから事務局長・代表を経て理事長を務めており、毎年イベントを開催しています。最近は、できる限り裏方で、やりたい人のサポートにまわるようにしています」
◆超多忙な藤原さんが、2003年、四国霊場八十八ケ所歩き遍路の旅に出かけた。初めての経験なのに、5月9日から6月26日まで、なんと49日間で結願した。この道に詳しい人によれば、49日とは信じられないほどの記録だそうだ。
「遍路は人生に時間の余裕があって出かけるのでなく、忙しいときに出てこそ価値があるように思います。
遍路の目的は自分探しでした。出かける前は不安でしたね。歩き出して3日目、足の指の爪がうげたときには弱気になり、家内に電話しました。
『壮行会までしてもらって、3日でやめるわけにはいかないでしょう。何日かけても治して、歩いては』と女房にいわれましてね。腹が据わりました」
遍路の旅では、いろいろな人との出会いがあった。
「多くの出会いのなかで特に印象に残っているのは、アルコール依存症の父親とそれを治そうとする息子の二人連れです。
ゴールが近づくと、父親は酒をこっそり飲み始めました。この親父さんを通して、人間の弱さと自分自身の中にある弱さを見せつけられましたね。息子の孝太郎君自身は、その頃になると自分のための旅だということに気づいていました」
「歩きながら無心に写真を撮っていると、現世を捨て、そのままずっと旅を続けたくなりました。遮二無二歩いていたんですが、後半はゆっくり歩いたんです。
家に帰っても、半年以上浮世離れして現世に戻れませんでした。女房にいわせると、目の玉の色が薄かったそうです。
遍路の旅を通じて、空(む)という世界に入ることができたことは、今後の人生にとって大きな財産になると、しみじみ喜びを感じています」
遍路の旅から帰り、今、一番熱心に取り組んでいることは、宮島頂上である弥山を紹介するMAP・冊子・記念誌の制作である。
「ご縁があって、宮島大聖院の吉田座主と親しくなりました。座主の弥山を紹介したいという熱意に打たれ、MAP・冊子・記念誌の制作を引き受けたんです。
2006年は、空海が弥山を開創して1200年目になります。そのためいろいろな行事が組まれていますが、弥山への道の紹介もその1つです。弥山への道というと、これまで3本の道しか知られていませんが、実際にはもっとたくさんあります。その中の6本を撮影しています」
◆藤原さんは1949年東京生まれ。1951年広島へ引っ越してきた。高校までは広島で就学し、それから東京に出て日本大学芸術学部写真学科へ入学する。
卒業すると広島に帰り印刷会社に応募したが、平凡な写真が必要という内容を聞いて断念。再び上京し、アバコスタジオに見習いアルバイトとして入り勉強した。
「東京へいくというと、父が怒り勘当するといいました。2年して広島へ帰ったんですが、そのとき父に言ったのは、女房と結婚したいということでした。女房は佐渡生まれで遠いので、反対覚悟で父の了解をとりつけたんです。
結婚式をあげて半年後、父は肝硬変で亡くなりました。酒の飲みすぎです。その原因は私の親不孝にあると、ずっと負い目になっています」
これまで一番影響を受けた写真家は誰かと尋ねると、ユージン・スミス(1918〜1975)だと言って1枚の写真を見せてくれた。男の子と女の子が手をつなぎ、森の開けた場所へ歩いている白黒の写真で、しみじみとした感動が伝わってくる写真だった。
「18歳のとき見たんですが、衝撃的でしたね。ものすごく影響を受けました」と、述懐する。
ユージン・スミスの略歴は、『太平洋戦争に従軍し沖縄戦で負傷、生涯その後遺症に悩まされる。チッソの水銀汚染問題で、胎児性水俣病の患者を撮り続け世界にその悲劇を知らせた。1972年にチッソ五井工場を訪問したとき、暴力団の暴行をうけ片目失明の重傷を受けた』というもの。
彼が影響を受けたのも理解できるような気がした。
彼は、写真への思い入れをつぎのように語る。
「宇品共和国も歩き遍路も本分ではありません。本分はあくまで写真です。歩き遍路に出かけるときも、何かを見つけ撮りたいと思いました。49日、毎日シャッターを切り続けました。こんなのは、人生で初めての経験で、ほんとうにうれしかったですね。
プロでもアマでもシャッターを切るのは、そこに撮りたいイメージがあるからです。問題は、そのとき撮りたいと感じる感性があるかどうか、被写体になるその場にいかにして居るかです。
アマは1年間に1本ホームランを打てばいいけど、プロは7割の打率が要求されます。7割の打率を維持するには、いかにチャンスを逃さず、確実に撮っていくか、そのためには感性を高め、いかに維持するかが大切です」
このようにプロの写真家としてのきびしさを語る藤原さんには、つぎのような側面もあった。
「広島で暮らす手段として写真館を開設しから、30年になります。その間に撮った写真のネガはすべて保管しています。
先般、ネガが残っていないか問合わせがありプリントしたところ、すごく喜んでいただきました。そのとき、写真館を続けてきてよかったとつくづく思いました」
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(戸村彰義)
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